南牧谷戦国史☆執筆資料

南牧谷戦国史☆執筆資料南牧谷戦国史(市川太平氏著)を読んでみた。砥沢城初代城主:市川重信氏より以前、義継氏が星尾城を築城…この行の根拠が何なのか??? 気になって夜もおちおち眠れない(笑)。なんとも不実なきっかけで太平氏に伺ったところ執筆資料を貸してくれた♪ 早速コピーして原本(これもコピー)はお返しした。

更に資料として「市川文書」「市川中興家譜」コピーしがてら目を通した程度、併せてゆっくり読んでいこうと思うが、資料の著者:市川三次氏は様々な歴史資料の相違点や根拠をこと細かに記しており…いつも迂闊なガボ、深みをを覗いてしまった感あり。すでにオーバー脳味噌気味。徳川家朱印状(文禄2年1593)の本物を見たい…と話したらこの資料を貸してくれた太平氏。早いところ勉強して本物見せてもらおう♪

徳川家朱印状の写しは佐久市・五郎兵衛記念館で展示してあるぴょん♪


これまでのコメント

  1. 井上正明 より:

    市河家初代覚義は源義光の末子で十郎を号し、甲斐国市河郷の文殊院別当市河重澄の婿となり市河を名乗りました。長男覚光は文殊院別当を継ぎ、後に長野県飯山市へ移り中野氏と固く結ばれ市河文書が高名です。二男俱義は父と共に埼玉県比企郡都幾川村の所領に移り『源為義嫡子・二男義賢』の家臣となりました。
    (都幾川村誌市河系図)大蔵合戦で義賢は悪源太義平に討たれ、家臣は地下に潜伏しました。南北朝になり市河五郎忠光は新田義重の二男義興に仕え、矢切の渡しで謀殺されその長男は西国へ逃れ子孫に市川崑監督が居られるとか。二男(名前不詳・初代羽沢城主)が南牧村羽沢に土着し、砥沢神社境内地で金を採掘して武田の軍資金になっていたとか。つまり甲斐国に流された武田家と市河家の先祖は兄弟です。
    羽沢城主五代五郎兵衛真親の時代には金は掘り尽くされ、砥石の生産だけに成っており、浅川家に譲られた?或いは膨大な五郎兵衛さんの借金のカタになった?
    私は大蔵合戦の真実を追究し、木曽義仲と義兄弟達の調査・執筆中です。
    羽沢城主五代の系図が知りたくて調査中『南牧谷戦国史』の存在を知り、たまたまこちらがヒットしました。
    私は『木曽義仲史学会』の会員ですが、お返事など頂けましたら幸いに存じます。

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